端島での強制労働について
参考文献:軍艦島実測調査資料集(昭和59年発行)、崩れゆく記憶端島鉱閉山18年目の記録、軍艦島海上産業都市に住む、死者への手紙海底炭坑の朝鮮人坑夫たち
○軍艦島実測調査資料集より(この書物は現在は絶版しており、入手は困難です。)
 端島で納屋制度が全廃されたのは、昭和16年に入ってからのことです。それ以前から、朝鮮人労働者の雇い入れは増加していました。特に昭和14年以降、「朝鮮人炭坑労務者集団移入の許可」(事実上の強制徴用の公認)によって連行されてきた朝鮮人労働者が坑内夫として大量に投入され、従来の納屋労働者に殆ど置き換えられました。住居として、彼らには従来の大納屋が当てられたので、結果的に昭和16年に納屋制度の全廃が実現できたとも言えるようです。戦争が激化すると、更に中国人の強制労働者が投入されました。これら外国人強制労働者の数は、正確な記録が無いものの中国人捕虜は約200名とも言われ、島南端の空き地の囲いの中で隔離・拘禁の生活を強いられました。
 三菱鉱業社史によれば、終戦当時、三菱社内炭鉱の労務者約50000人のうち、朝鮮人、中国人は約17000人を占めていたそうです。同社史の記述では、昭和16年12月における端島の在籍労働者数1826名中、坑内夫は1420名とあり、坑内夫の殆どが朝鮮人に置き換えられたと考えれば少なくとも1000名は朝鮮人強制労働者であったと考えられます。
 彼らの入坑は二交代制、1日12時間以上、採炭現場への往復時間を入れると十数時間も拘束られる極限的な重労働であったということです。三交代制になったのは戦後になってからのことです。因みに、端島で機械化が最も進んだ時期でも成し得なかった史上最高の採炭数はこの時期に記録されたものです。

○ノンフィクション作家林えいだい氏の著書「死者への手紙」の”まえがき”で著者は次のように触れています。(抜粋。この本は現在でも入手購入が可能です。)
 昭和20年、原爆投下により長崎は一瞬に壊滅した。その被害の大きさの陰にあって、近くの島の炭坑に強制連行された中国人捕虜と朝鮮人についてはこれまで省みられることはなかった。企業城下町といわれる三菱資本が支配する長崎が故に、その実態は闇の中であった。
 一端強制連行され島に入ると、東シナ海の黒潮の潮流により島からの脱出は不可能であった。孤島の閉鎖性のために中でどんな圧制が行われても絶対に外部に漏れることはなかった。端島の岸壁の桟橋に残る石造りの門は一生出られない「地獄門」であり、崎戸島も「鬼ヶ島」といわれ、高島は「白骨島」、3つの島は「1に高島、2に端島、3で崎戸の鬼ヶ島」と言われ、その存在は人々からおそれられた。
 これらの三島で非人間的な圧制が行われた事実は、過去において多くの坑夫たちに語られてきたが、その証拠となる記録が一切残されていない。
 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」は戦後の朝鮮人被爆者の実態調査と、強制連行された朝鮮人の証言を集めてきた。そのなかで端島で発見された日本人、中国人、朝鮮人の大正14年から昭和20年に至る20年間の「死亡診断書」、「火葬認許証下附申請書」の意義は大きい。閉山によって高島町役場端島支所は閉鎖され、旧高浜役場時代の古い文書がそのまま残った。昭和61年に会のメンバーが支所跡で死亡した人の火葬許可を高浜村長に申請した書類を偶然発見した。それには朝鮮の本籍地、現住所、職業、氏名、年齢、病名、発病、死亡年月日、火葬場が記されていた。
 端島炭坑で朝鮮人の強制連行が始まったのは1939年(昭和14年)から1945年までで、「変死」9名、「事故死」17名、「病死」23名を上回る。埋没に起因する窒息が14名とあり、朝鮮人の死因には不自然な変死が多いことがわかった。孤島という密室で何が行われたか、外傷や打撲による変死が多く、労務係や坑内係のリンチではないかという疑問が出てくる。昭和19年から昭和20年にかけては日本人に比較して朝鮮人の死亡率が急に高くなる。昭和19年には9人、翌年23人、その翌年は8ヶ月で19人死亡している。
 戦争末期に入り出炭数はがた落ちしているのに逆に朝鮮人の死亡率が高いことは注目すべき点である。昭和19年9月には樺太から300人の朝鮮人坑夫が配転されてきた。採炭に慣れていないこと、朝鮮からの強制連行直後に坑内に送られたため事故が多かったことも原因に考えられはする。

 ここでは、端島の歴史の一つとして強制労働に触れ事実の一端をお伝えするにとどめます。時代背景や更に詳しい実態をお知りになりたい方は改めて検索していただくか、上記書物などを参考にしてみて下さい。