端島の便所・炊事について
参考文献:軍艦島実測調査資料集(昭和59年発行)、崩れゆく記憶端島鉱閉山18年目の記録、軍艦島海上産業都市に住む、死者への手紙海底炭坑の朝鮮人坑夫たち
●便所
 明治大正時代初期の島内住居地はほとんど木造の中低層住宅で占められていて、職員用住宅は1,2階建てで各戸に汲み取り式の便所があり、2〜5階建ての集合住宅においては階ごとに共同便所があり、外壁に取り付けた竪管に各層の便器が、斜めの枝管をつないで汚物を落下させるもので、これも汲み取り式でした。この時代は毎日のように百姓が野母半島から来て汲み取りに来ていたそうです。
 大正5年に建設された現存最古の鉄筋コンクリート建物である30号棟には、非水洗式または半水洗式の便所の原型といるものがあります。(非水洗式とは、恐らく水を使わず便と落とす方式のもの、半水洗式とは、手桶等で自分で水を流す方式のものだと思います。)
 30号棟は、各階に共同便所が一箇所ずつあり、各6つの大便器があります。大便器から斜めの枝管で便を流します。この汚物排水管からは、各層ごとに1本、臭気抜きの横引管が出ていて、外壁に接した臭気抜きの竪管につながっています。この竪管は地階の便槽の臭気抜きも兼ねていて、屋上から排気されました。使用後は手桶で水を流しましたが、海水を利用したため便が腐敗槽の中で一種の塩漬け状態になり十分腐敗しないまま海に放流するため極めて不衛生だったと言われます。海で泳いだりして端島で伝染病が多発したのはこの原因によるものが多いと言われます。
 大正7年に建設された日給社宅では、各層の岩盤側に3箇所ずつ共同便所があります。ここでは、定期的に海水を勢いよく流して汚物を排出していたそうです。一種の半水洗式と言えます。その後日給社宅の共同便所は大廊下側(外海側)に移されましたが、形式は30号棟とほぼ同様のようです。
 これらの便所は昭和30年頃まで溜枡に集めて放流していましたが、伝染病が起こりやすい等の理由からその後浄化槽が設けられています。
 閉山前には、比較的新しい70,71,59,2,3,13号棟など22棟は現代的下水方式の完全な水洗便所が設けられました。このなかには建物は古いが、便所がけ水洗式に改造したものもあります。残りの20棟ほどは、従来通りの半水洗式で、排水勾配をとって汚物を垂れ流し、地下排水溝から処理槽を経て海に放流されていました。ですから、下層ほど悪臭が強かったようです。
 悪臭の原因としては、かなりの水を使わないと汚物が勾配をとった管にこびり付くこと、排便管や臭気抜き管が各層共有となっていたこと、等が挙げられるとしています。
 この状態を改善した建物としては66号棟があり、各層の便器を上に行くほどオーバーハングさせて海側に張り出させ各層からの排便管、臭気抜き管と各層毎に分離しているそうです。
 建物によって、清掃管理の状況が著しく異なり、下請け労働者の集合住宅であった30号棟は悪臭が特に強かったそうです。鉱員社宅で共同便所を有する建物である日給社宅、65,66号棟などは、便所内の各大便器ブースに名札がかかっていて、1戸から2戸で1ブースの割合で使用したようです。1戸1便器の場所では個人で清掃を行い、複数で使用する場合は当番制で清掃したようです。

●炊事
 蒸留水機によって清水を得ていた時代には、鉱場内にある給水場に行き、家庭用飲用水を桶にいてれ住戸まで運んでいました。給水船に頼っていた時代では、指定の時間帯に居住地区内の共同水栓のあるところに行き、水券と引換に水を貰い桶で住戸まで運びました。これらの時期には、住戸内の台所に置かれた水槽に飲用水を溜めて使っていたようです。水槽はそのまま残っているところも多いようです。野菜、食器の下洗いなどは、消火栓から雑用水をくんできて通路の排水溝の脇で洗い、台所では水槽や水瓶に溜めた水を使用していたそうです。
 時代と共に改善され、日給社宅でも閉山前にはステンレス製の流し台を備える家もかなりあったようです。
 居室内の台所はかまどを備えている所が目に付きます。(全部かもしれません。)閉山までかまどを利用していたわけではなく、ガスコンロ、電熱コンロが利用されていたようです。閉山時に端島に居られた方にお聞きしても、かまどを使った記憶は無い、と教えられました。部屋によっては、ガスボンベがいまでもある所がありました。