端島の水事情について
参考文献:軍艦島実測調査資料集(昭和59年発行)、崩れゆく記憶端島鉱閉山18年目の記録、軍艦島海上産業都市に住む、死者への手紙海底炭坑の朝鮮人坑夫たち
 端島では、蒸留水、雨水の利用、給水船で水を運搬していた時代、海底水道の時代と分ける事が出来ます。
 端島には湧水が無く、水の獲得は重要問題でした。水確保は当初から会社の仕事で、費用を度外視しても自足するに足りる水を確保しなくてはなりませんでした。生活用水以外にも消火用水、清掃用など雑用水に使う海水をタンクにポンプアップしたり、屋根に降る雨水を桶で受け貯水するタンクを各低層棟に取り付けたり等の事業も会社が行ったようです。
 水を配分する事では、蒸留水機で飲料水を精製した時期には、人々は桶を持って配給を受けに集まりました。毎日その日の分の配給水をもらいの男の仕事だったようです。
 水との引換札として、会社は「水券」を発行し、その絶対量をコントロールしました。与えられる水券の量は家族の数により決められましたが、水券自体に価値が認められ、やみで売買されたり、賞罰に使われたこともあるようです。また、水券の盗難被害もあったようです。
 この水券制度は、給水船が来るようになり、島内の貯水槽に蓄えられた水が数カ所の共同水栓から配給されるようになっても変わりませんでした。
 ですから、節水が行われていたようです。少し海が荒れれば給水制限が行われ、風呂が海水風呂になるなどしたようです。恒常的な節水としては、海水で代用できるものは海水を利用しました。便所の水洗方式は海水を利用するため鉄材が利用出来ず、排便管などは土管やコンクリートの物が多い様です。
 また、水を大量消費する施設は共同化されています。浴場、洗濯場、便所などがその例です。共同化することで規制・監督が行い易かった利点もあるようです。こうした水の管理は、海底水道が完成する昭和32年頃まで続いたようです。これは全国で3番目に各戸給水が布設された長崎県ですが、端島・高島はそれから60年余り遅れての完成でした。それにより、水を大量に消費する電気洗濯機や本格的水洗トイレ等が普及しました。当時、端島では水道代は0円。正確には、家賃・電気料金・ガス代を含めて月額10円だったのです。

蒸留水、雨水の時代・・・明治24年に採炭事業促進のために、製塩・蒸留水機が設置されました。この蒸留水を飲料水として配給し、製出された「高島塩」もかなりの利益を上げていたようです。現在の中央高地部南部の貯水槽の真下の鉱場部分にあたる箇所にあった蒸留水機の給水栓には、各戸から家庭用飲料水の配給を待ち受ける人が集まりました。天秤棒の前後に水桶を下げて持ち帰るのはかなりの重労働だったと思います。主に男性の仕事でしたが、中には主婦の内職として専業化した「水汲み女」もいたようです。真水は常に不足し、雑用水は海水や雨水を使いました。雨水を貯水するのに屋根の雨水を桶で集め貯水槽に引込んだ時代もあったようです。海水消火栓は大正時代に設けられ、中央高地部南端の貯水槽に一旦揚げられてから各所に配管されていました。

 給水船時代・・・昭和7年給水船「三島丸」が進水し、1日1回の給水をするようになります。水源は長崎市南端より約4kmにある土井ノ首水源地で、端島まで約12kmを海上輸送しました。以降3年間飲料水は給水船と蒸留水機の2本立で行われましたが、昭和10年(1935)に高島・端島の製塩事業が廃止され、以降は給水船のみに頼ることになります。海が荒れると何日間も給水船が欠航するので島の各所に貯水槽があり、各戸にも貯水用バック等が常設されてたいたようです。海水はいつでもふんだんに供給される一方、真水は「水券」の交付により定量に制限されました。配給場所である共同水栓は島内数カ所に散在し、蒸留水機時代より条件は良かったようです。戦後は島内に容量2100tの水槽があり、350tのタンカーが毎日3回出入りし、水槽に供給しました。が、この水量では給水船が2日の欠航で空になる量でした。因みに輸送費が年間2000万円もかかったようです。

 海底水道時代・・・昭和29年海底水道布設工事着工、昭和31年5月25日に起工式を実施、総工費3億600万円を投じて行われました。約18ヶ月を費やし昭和32年10月12日、高島・端島海底水道が完成しました。パイプの種類は鋼管。外面をアスファルトジュールで覆い、更にモルタルで防護。600m毎にパイプを接合。管はφ150、高島へはφ200それぞれ2系列のパイプを布設。長さは6500にもなりました。これにより、三和町為石浄水場から高島・端島の約4900世帯に1日5000tが送水可能となったのです。水源は5本の堀井と長崎市鹿尾水系からの合水でした。中央高地部南端の貯水タンクは、真水と海水を半分ずつ貯水し、消火栓も海水のものと並行して真水消火栓が完備されるようになりました。小学校横の700tと1000tの2基のタンクが常時満水状態にあり、結果水運びの重労働もなくなったようです。海底水道開設後、水源地の水が不足がちになってきたため昭和35、36、37年の3ヵ年度に4300万円近くを投じて水源地の拡張工事を行いましたが、それでも需要に追いつけず夏場には渇水になりがちだったようです。そこで昭和42年から更に総工費1億9000万円を投じ第4回目の拡張工事をし、貯水能力10万tの為石貯水池が完成したのです。