端島での赤痢、屋上庭園、緑化運動について
参考文献:軍艦島実測調査資料集(昭和59年発行)、崩れゆく記憶端島鉱閉山18年目の記録、軍艦島海上産業都市に住む、死者への手紙海底炭坑の朝鮮人坑夫たち
●赤痢
 昭和20年全国で猛威を振るった赤痢は端島では幸いにも流行らなかったが、昭和21年の腸チフスに続いて昭和26年をピークに昭和30年頃まで赤痢が全島を襲いました。
 島での赤痢発生は同時に多数の患者が爆発的に発生するのではなく、各種の伝染源から種々は感染経路によって散発的に次から次ぎへと発生するというものだったようです。
 一部便所では直接糞尿を海に排出しており、その海水で子供が泳いだり、また食べ物を下洗いしたりということも要因となったようです。
 海底水道が整備され、浄化槽が整備されて衛生面で改善されてからは伝染病の大流行は発生していません。

●屋上庭園
 日給社宅20号棟の山側、現在14号棟が建っているのとほぼ同じ位置に、明治末年頃、旧14号棟が建てられました。木造5階建ての陸屋根で、屋上庭園を有していました。これは、日本で最初の屋上庭園でした。
 現在の残っている建物でも、屋上庭園は数多く見られます。

●緑化運動
 昭和38年頃から、全国的な運動と相俟って住民組織による緑化運動が活発になったようです。各地区のPTA子供会、各同好会などが花壇、農園作りにより屋上や空き地、花壇などの緑化が計画的に進められました。
 同年、地区PTAの指導により、青空子供会は18,19号棟屋上に「青空農園」を作りました。植土を香焼や高浜から運搬し、トマトなどや稲に至るまで子供たちが栽培したようです。
 しかし、屋上庭園という、作物の生育に最悪の条件が、潮風の悪影響から農園を守る努力が払われたにもかかわらず、2回の収穫が限度だったそうです。
 また、端島小学校では島内を草花で飾る運動を始めあらゆる悪条件につよい、「マツバギク」を昭和39年に小学校児童が手作りの木箱等と用い、各戸に配布したそうです。