端島の気象・桟橋・護岸について
参考文献:軍艦島実測調査資料集(昭和59年発行)、崩れゆく記憶端島鉱閉山18年目の記録、軍艦島海上産業都市に住む、死者への手紙海底炭坑の朝鮮人坑夫たち
●気象・台風について
 端島の気象は予想し辛く、朝は海上は静かでも夕刻には時化(しけ)になることが多かったそうです。黒潮の影響で冬でも比較的暖かく、霜が降りることは無かったようです。
 四方を海に囲まれているため、風波による影響は大きく特に台風の来襲は毎年の様に被害をもたらしました。長崎方面では7〜9月頃台風が通ります。風害やうねりの他、高潮、風浪等があり、海に面した所では、此が風以上に影響を与えたそうです。台風の折りには、端島では満潮時には波高8mにもなることもあり、打ち付けるしぶきは、高さ30mにもなり、建物を上から多い被せる凄まじさでした。このとき、島の北西のメインストリートであった場所は川となります。護岸が決壊し、大きな被害を与えたことも少なくなかったようです。
 59、60、61号棟等は大波があるとしぶきが覆い、人々はこの辺りを「潮降り町」と呼びました。台風に限らず、突風や竜巻など風速30mを越える風も島に影響を与えたようです。

●海上交通・桟橋
 一般の海上交通は初期は小舟で護岸の傾斜に直にとりつけていました。明治20年に日本最初の鉄船といわれる「夕顔丸」が竣工してからも人々は海上でハシケに乗り移り、岸壁とりついて上陸していました。大正11年にクレーン式上陸桟橋が完成してからは、ハシケでこの桟橋に上陸していましたが、海が時化ると欠航、普通の日でも女、子供が揺れ動くハシケに乗り移るのは難しかったようです。土用波が打ち寄せる頃はハシケから直接桟橋に上がれないので、縄梯子をつたって上陸したようです。
 永年に渡り島民の夢であった、恐らくは実現不可能といわれた最初の本格的桟橋は昭和29年8月27日に完成します。この日本初のドルフィン式可動桟橋は、昭和31年8月の台風9号により一瞬にして根こそぎ流失します。桟橋の設計では波高3mに耐えるものでしたが、記録ではこのとき波高7mだったとのことです。
 第2のドルフィン桟橋は、約1年半の研究の結果、波高7mにも安全といわれる設計がなされ、昭和33年10月31日に完成します。しかし、この桟橋も昭和34年の台風14号で海中に没したのです。記録的な台風14号では、波高が12〜13mあったと言われます。
 そして、端島では実現不可能と思われたドルフィン桟橋は、運輸省技術陣の研究の結果、昭和37年5月に第3のドルフィン桟橋の完成に至ります。これは、端島より15mの海岸の岩盤を3m掘り下げ、長さ25m、幅12m海底から高さ15mの人工島を造り、これに船を接岸させるという新方式でした。これが閉山まで利用され、今も名残を残します。
 実現しませんでしたが、人口問題等に対処するため、高島までの4kmに海底トンネルを造る計画もあったようです。しかし、一方の水没が他方を巻き込む恐れがあり、実現しなかったということです。

●護岸
 端島の外周は明治以来拡張を続けながら岸壁を造り替え、補修を重ねてきました。無人島だった頃の端島は現在の岩盤部分だけで構成され、隣の中ノ島よりも小さいものでした。埋め立てによる拡張は無原則に行われた訳ではなく、本来の自然形と岩礁の配置に従っています。台風の被害を受ける場所では初期には岩礁が無く、ズリで埋め立てた所が多かった様です。
 明治の終わり頃の写真では、護岸は全て天川と呼ばれる接合剤で岩石を積んだ構造です。大正末期まではこの天川護岸が主となっていたようです。昭和のはじめには、台風被害により部分的にですがケーソンによる鉄筋コンクリート造護岸壁が現れます。
 その後、閉山に至る迄は旧来の天川護岸壁を周囲から鉄筋コンクリートで包み込む形で補修、補強がなされました。又、北側浅瀬には大量のテトラポットを投入しています。
 現在の護岸壁は、高さが海底から10m程度、上部幅約1m程度、海底部で幅約3m程度のものとなっています。もちろん箇所により相違はありますが。