端島の風呂事情について
参考文献:軍艦島実測調査資料集(昭和59年発行)、崩れゆく記憶端島鉱閉山18年目の記録、軍艦島海上産業都市に住む、死者への手紙海底炭坑の朝鮮人坑夫たち
 端島の風呂は、その殆どが共同浴場です。坑内で汚れた体を下洗いするのは、鉱場内にある共同浴場で、これは海水風呂でした。ここは浴槽の湯は常に墨の様に真っ黒だったということです。
 居住地域内の風呂は職制により、労務者浴場と職員家族浴場に分別されていたようです。端島では、生活用水清水の供給が重要関心事であったこと、炭坑という場所柄体の汚れの激しい環境での浴場運営はモラルや約束事を特に強くしたようです。1937年発行の「三菱高島鉱業所案内」では、清水不足のため労務者浴場は隔日に潮風呂であると記されています。
 1941年の端島鉱坑外スケルトンダイヤグラムでは、当時の浴場は、鉱場内浴場、8号棟職員家族用共同浴場、現新65号棟の位置にあった労務者用共同浴場の3つで、鉱場地区にあるボイラーから蒸気管により給水していました。水と蒸気とを別の管で導入し、浴槽内で混合しました。水は海水、真水の何れも使用されましたが、掛かり湯、上がり湯には清水が使用されていました。
 1954年の報告書によると、この時代は給水船により水が運搬されていましたが、端島では海が荒れると先ず風呂が海水風呂となり、真水の風呂は中止されました。この様なとき、共同浴場の上がり湯は、各自家から持参した真水を使用したようです。このとき、盗難にあう真水も時にあったようです。この時期、居住区内には、鉱場社宅に1つ、職員クラブ(高級職員用、7号棟)、職員家族用共同浴場(8号棟)、労務者共同浴場2つ(現31号棟が建つ前の位置、及び現65号棟の南翼部が建つ前の位置)の5つがあったようです。
 1946年、労組結成により、建前としては差別はなくなります。1954年に労使が交わした「覚え書き」には職員家族浴場の鉱員利用に関して、「現在の実態を尊重し双方善処する」となっています。決定的には、1965年の台風9号・12号の被害で労務者浴場が一時使用不能となり、職員家族用浴場を利用することがあって以来、差別は殆ど無くなったようです。
 又、同報告書では、「鉱場内に浴場があるにもかかわらず、居住地内共同浴場にも石炭に汚れた坑夫が多数入浴するため、浴槽が分かれていて、第一槽で炭をほぼ洗い流してから第二槽に入った。夏などには、坑から風呂に直行し、裸のまま家に帰る者のいた。」とあるようです。
 海底水道が開通してからは、風呂に関しても比較的恵まれていましたが、島内の貯水量により給水が制限されることもあったようです。1965年には、第一制限給水(貯水量が800tを割った時)の場合、家族浴場は月水金に休浴、第二制限給水(貯水量600tを割ったとき)は家族浴場は月水金休浴、夜間(19時〜6時)は全島給水停止となったようです。
 閉山前には、鉱長社宅(5号棟)、3号棟のみ各戸に風呂があり、清風荘(旅館で、25号棟)、クラブハウス(7号棟)の他には8号棟、31号棟地下、60・61号棟間地下、66号棟地下の44ヵ所に共同浴場がありました。
 共同浴場は何れも銭湯ではなく、入場無料でしたが、入浴時間が短く、夕方3時〜8時と定められていたようです。男、女湯は分かれていますが、納屋時代には混浴であった様です。単位時間当たりの利用人数は極めて多く、文字通りのイモ洗いだったようです。
 島内の各家庭を見て回りましたが、いわゆるシャワーは全く見あたりません。また、湯沸かし器も見かけませんでした。3号棟の内湯といっても大変小さいもので、風呂釜はコンクリートで造られたものです。
 現在、3号棟、8号棟、66号棟地下、60・61号棟間地下の風呂は見ることが出来ますが、31号棟の地下は土砂で埋まり見ることは出来ません。5号棟は崩壊し、詳しく確認していません。
又、清風荘内へは危険ながら入れますが、風呂場は確認していません。
 文献に記述が見あたりませんでしたが、69号棟の端島病院にも風呂らしき物がありましたが確認できませんでした。