端島について
参考文献:軍艦島実測調査資料集(昭和59年発行)、崩れゆく記憶端島鉱閉山18年目の記録、軍艦島海上産業都市に住む、死者への手紙海底炭坑の朝鮮人坑夫たち
●概要
 「軍艦島」は正確には長崎県西彼杵郡高島町端島の俗称です。戦艦「土佐」に島影が似ていることから名付けられたといいます。
 場所は、東経129度45分、北緯32度39分に位置し、野母半島の北西、長崎港から約18キロの海上にあります。
 大きさは、南北約480m、東西約160m、面積は約6.3ha、周囲約1.2km、岩峻の高さ海抜47.7mという小さな島です。
 1810年頃石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行います。明治23年、三菱が島全体と鉱区の権利を買い取り本格的海底炭坑として、操業が開始されます。
 島直下及び、周辺の海底から良質の強粘結炭を採掘し、主として八幡製鉄所に製鉄用原料炭を供給する島として、国家の手厚い保護を受けてきました。
 しかし、国のエネルギー転換政策の推進に伴い、1974年1月に採炭を停止し、同年4月には住居者が全て島を去り、無人化しました。
 操業当時は、長崎港から高島を経由して1時間20分の定期船が2隻運航していましたが、もちろん今では定期便はありません。
 三菱所有の島ですが、不要時には無償で高島町に譲り渡す契約がなされているという話もあります。確証は得ていませんが。。
 閉山に伴い、従業者は他の炭坑、工業地帯などに職を求め全国に散らばりました。

●沿革
 明治期には中央の岩盤上に3〜4階建ての木造住宅が数棟あり、東部平坦地には作業場、西部平坦地には住宅及び公共施設(会社立尋常証が鉱、共同販売所、演劇場、料理屋、娯楽場など)がありました。当時の雇用形態は、大納屋(独身鉱夫)、小納屋(世帯持ち)の納屋頭が会社の下請けとして労働者を供給し、各人は納屋頭に雇われるという封建的な納屋制度でした。
 その後、大正から第2次世界大戦終了までは、新しい炭層の発見と深層部開発の成功により島内の施設群、住居等に大きな変化が訪れます。建築の多くは高層鉄筋コンクリート造に変わり、それらが林立する姿を大正12年に当時の長崎日日新聞が初めて「軍艦島」という呼び名で世に紹介します。
 そして、日本初の鉄筋コンクリート造高層集合住宅である30号棟が大正5年に建築され、ついで大正7年には当時の欧米の水準に劣らない日給社宅が建築されました。日本近代建築史上特筆に値する重要な文化的遺構であると言われています。
 その後、引き続き5〜9階建ての鉄筋コンクリート造建築物が次々に建築され、第二次世界大戦末期までには現在とほぼ同じ空間構成となっていたようです。昭和16年、ピークに達した端島は411100tの出炭が記録されています。
 この時期に納屋制度は廃止、直轄雇用制度に変わりましたが、実情は朝鮮人強制労働者に変わっただけというものだったようです。
 敗戦後から昭和39年までは、労働関係諸方の成立、労働組合の誕生による改革、改善が行われ、戦災復興を支える石炭振興政策と旧満州からの引き揚げ者を大量に受け入れることによって人口は急増します。
 昭和30年にそれまで高浜村に属していた端島は、町村合併促進法により高島と合併し、高島町に属することになります。
 また、幼稚園、小学校、中学校等の教育施設、病院などの医療保険施設、商業、娯楽施設、公民館などが整備されます。ドルフィン桟橋が試行錯誤の上完成し、海底水道が開通し、野母商船の定期便が運行を開始します。
 しかし、このころ始まった石炭生産合理化政策が深化するなかで発生した1946年の坑道自然発火事件を切っ掛けに、端島鉱は深部区域を放棄、1965年10月に新炭層から出炭するまでは採炭を中止するに至ります。このため人員整理と配置転換により島内の人口は大幅に減少、住居不足は解決することになります。
 新炭層出炭により活気を取り戻した端島は、本格的は機械化採炭により出炭率は飛躍的に向上したが、結局1970年の端島沖開発中止により会社は鉱命終了期を発表し、1972年に組合側を妥結して、同年12月に採炭を終了、1974年1月15日正式に閉山したのです。このときの人口は2200人でした。
 此を受け、同年4月20日をもって野母商船定期便が廃止、島民は皆島を去ったのです。