1.
端島(軍艦島)への思い
※ 自己紹介(道徳の由来)
※ 昭和29年福岡の筑豊の炭鉱町生まれ4月で50歳
現在長与町でパソコン教室の経営
その傍らNPO法人軍艦島を世界遺産にする会の理事長
12歳のときに筑豊からこの端島(軍艦島)へ5家族くらいで連れてこられた
島へ渡る前夜長崎市内で食べた中華料理はおいしかった
しかし当日12月の荒れる海に初めての船で前日の嬉しさとは反対の苦しみ
何でこんな島に着たんだろうという思いがあった。
ある大きな宿泊施設で一晩畳の上で苦しんでいた記憶が今でも残っているし
この島への第一印象として悪さはかなりのものでした
しかし日がたつにつれ今まで見たこともなかった高層アパート、7階建ての学校
島の都会のようで結構快適な生活を送っていた。
中には映画館、売店、本屋、生活にたる物はほとんど得られた。
私の住んでいた部屋は6畳二間、と台所・・・ここに親子5人
今考えると狭い間取り・・・しかしその当時はそんなことを考えたこともなかった。筑豊では6畳一間のアパートに間借りしていたこともありましたから。
5年前に25年ぶりに上陸して部屋に行ったら・・たんす、火鉢、郵便ポストなんかが残っていて当時を振り返るには十分でいつしかタイムスリップしていました。
30年前たぶん今ぐらいのとき・・・そのころは長崎に下宿・・
大学に通っていましたので・・お金がなくなると島の両親に無心に行っていた
その日に限って島に着いたとき・・桟橋によそ行きの服ので両親がいた・・
聞いてみたら今から広島に・・・一便違っていたら会えなかった
そのまま一緒に長崎にでた・・それがこの島との別れ・・それから25年
たって45さいの同窓会・・
※ 島へ渡った日
※ 島の生活(電気ガス水道はすべてただ)必要なものはほとんど手に入った
○ 風呂が一番の社交場(同窓会のこと)
風呂に行くまでのスリル感・・あとのジュース、アイス
○ 屋上は遊ぶ場所でありデートの場所
○ 限られたスペースで工夫をしながら遊んでいた(ビー球)
さまざまな地域から来ているから多彩な遊びがあった
また閉鎖的な部分で文化的な活動でかなり有名だったらしい(カルタ、楽団)
○ 緑なき島という表現をされていましたが屋上には沢山の緑がありました
○ また夫婦喧嘩・・・大人は酒・・近所の大人
○ よほどのことがない限り鍵をかけなかった
○ 住んでいた部屋は6畳二間・・それでよかった
閉山後各部屋を見て身分社会を実感した
※ どんなイベントでも島民みんなが協力し合った
隣組的な付き合い
※ 島を離れた日
※ 25年ぶりの端島
※ 端島への思いの違い
端島の紹介
長崎港の沖合い19キロ
当時は大波止から1時間20分かかっていました
高島町の隣の島・・・端島通称軍艦島
長さ480メートル、幅160メートル・・
周囲1.2kの今は無人島
古い高層鉄筋アパート群、コンクリートで作られた要塞のような護岸。
外観から「軍艦島」の名前で呼ばれています。
「端島」をはじめて『軍艦島』と表現したのは1923年(大正12年)長崎日々新聞が最初であると言われています。 これは「コンクリートの護岸に囲まれた島の姿が建造中の旧日本海軍の最新鋭戦艦『土佐』に似ていたため」というのが通説になっています。
1890年(明治23年)海底炭鉱が操業。日本初の高層鉄筋アパートが建設されました。
最盛期の1959年には住民は5259人で人口密度日本一・・・
1974年(昭和49年)に閉山・・以後無人島です
軍艦島は上陸禁止であったことが幸いにして島の町並みが閉山当時のまま残され歴史と暮らしを物語る貴重なものがそのまま残されています。
4年前に同窓会で25年ぶりに上陸したときには(そのときには完全な上陸禁止だとは知りませんでした)自分の住んでいた部屋に行くとなつかしいタンスや火鉢・・そして
なつかしい高校時代のノート、教科書がそのまま残っていました
まるでタイムスリップをしたような感覚です。
炭鉱跡や町並みが完全に近い形で残された例はわが国ではありません。
またこの端島の建物の面白さは
一般の方が島を巡っているうちに自分がどの高さ(何階に)いるのかをわからなくなったりするような錯覚を覚えるそうです。
これは建物自体が最初からきちんと設計されて作られたものではなく
その状況状況で建て増しされたことが原因であり
またこの狭い空間の中での人間の知恵が生み出した産物なのだと思えます。
そういった状況の中で人々はその形や住空間にならされそれが当たり前のように
生活できたということはどんな非日常的なことでも慣らされることで
人は非日常を日常のものにできるということかもしれません
私もこのしまでの生活がちょうど青春時代であり思いでは沢山あります。
プライバシーを無視したような近所付き合い。。。
島に住んでいるという感覚がないような日々の生活
店はあり、病院、映画館もありパチンコもあり食堂もある・・
特別生活に困るものもなかった。
時化の日のラーメン生活ぐらいでしょうか・・・
学校も7階建てというその当時ではかなりのインパクトのある建物ではなかったでしょうか・
島の平坦な部分は炭鉱のための施設であり残りの空間の島のヘリにしがみつくような形で住居を確保しなければならなかったことはあの高層アパートを構築しなければならなかったことを考えると
恐ろしいほどの圧迫感が感じられますが
それはそれなりのルールが暗黙の中で存在し老若男女の人々が家族ぐるみの生活を営んでいたのは事実です。
また島内で完結されていたのは・・ゆりかごから墓場まで・・たとえそれが不満足な施設であったとしても都市社会で必要とされるものを一応ワンセットで備えていたことも
病院がありサンバがいてお寺がありということにも繋がっていきます・・・
一時期緑なき島とマスメディアでは言われてきましたが
むしろ意外と緑の多い島であったような気がします。
それは何故か・・島民の人々が汗と共同作業によって建物の屋上やテラス、岩盤や埋立地の人工庭園などに緑を置き・・・求めるがゆえに努力して厳しい環境の中で育てていった事実があるからです。今でも屋上にはかっての屋上菜園の後が残っています。
この一例をとっても極限状況の中での住民の創造的姿勢と共同体意識の高さがうかがえます。
これは外部の人達の端島(軍艦島)への固定観念を払拭する事実でありむしろ不思議な明るさを持つものです。
これは町作りの結果としての空間を単に様式や手法として学ぶことではなく
人間と環境との対応のあり方を時間、空間の違和感を超越しようとする
際立って典型的な存在といえると思います。
こういった固定観念の中での創造では新しいものは生まれない。
むしろそれを超越できる環境に追い込むことで新しい創造ができるのではないのでしょうか。
軍艦島みる尺度は一人一人違うと思います
人はすべて自分中心のものさしで他を図りたがるものです
自分の町や住まい仕事・・生活を図りなれているとそれ以上のものさしで
図らなくなってしまいます
これは軍艦島を・・地獄島、緑のない島と表現するのは簡単でしょうが
ものさしを変えて図ってみるとその中には明るく楽しいダイナミックな
島おこし、町つくりがされていたことも見えてくるのではないのでしょうか。
また皆さんの町を考えるときに皆さん一人一人の考えと尺度は違うと思いますが
もう一度尺度を変えて考えてみる時期かもしれませんね
こういった島の断片をお話をしましたが
さまざまないきさつで
この島を日本の近代化を支えた産業遺構として何とか保存できないかという思いから
私はこの活動を始めました。
「軍艦島を世界遺産にする会」
これを始めようとしたときに
私は周りの方々から
なんて馬鹿なことを始めたんだろうとか
そんなことできるわけがないとか
さまざまな声が聞こえてきました
多分今でもそう思っておられる方もいるのでしょうが
世界遺産・・・壮大な夢です
でも夢の一歩は常に周りの理解は得られないものだと思います
しかしだからといってあきらめていては
夢はただの空想でしかないのです
私がこの会を設立して思ったことの中に
人と人との「縁」えにし・・を深く感じました
いま多くの方がこの運動に賛同され活動をしていただいていますが
ひとり一人の方とある縁でつながりは・・メールで話し、電話で話しそして
会って話して理解を深めることがどんなに素晴らしことなのかを知ることができました。
森教授とはもうお知り合いになって2年以上経ちますが
最初はメールだけのことでした・・・しかし先生は最後には会って話をしないとお互いに理解はできないよといわれ・・初めてお会いできたのは
ほんの数ヶ月前でした・・・
もっと早くお会いしていればと思う気持ちは今でもあります。
しかしそこへお会いしに行くための勇気をためらったことがこんなにも時間がかかったのだと思います。
今わたしは・・この人と会いたいと思うときにはできるだけ迅速に会うように心がけています。それが私の夢を一歩でも進んでいくための「縁」をつなげていくものだと信じています。
さまざまな知恵を出すのは自分自身だけでは不足する専門的なことなど沢山の「縁」が
一つ一つ解決してくれます。
皆さんの中に眠っている知恵を「縁」というつながりで出し合いませんか
そしたら今後の我々が向かおうとしている道が見えてくるかもしれません。
保存活動
※ 最初は単なる郷愁の念だけ
※ なぜ今まで30年も放置されたのか疑問
※ ホームページで過去の島の様子を語り始める
※ 若者たちの廃墟ブームの中での位置づけ・・・トップクラスの廃墟
※ 過去の経過4年間の歩み
2001年10月端島が高島へ無償譲渡
加藤康子さんとの出会い・・去年の北海道の世界鉱山会議の委員
世界遺産・・・
1972年の第17回ユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」のことです。
世界遺産条約が生まれたのは、地球上に存在するさまざまな文化遺産、自然遺産を、ある特定の国や民族のものとしてだけでなく、世界の全ての人にとってかけがえのない宝物として、保護していこうという考え方
あくまでも手段であって最終の目的ではない
日本の近代化を支えた炭鉱の歴史、また高島は石炭発祥の地でもある
これを後世に伝えていく義務が我々にはある。
元島民という感覚だけではなく産業遺産の保存という観点で考え始めた。
炭鉱が消えていき今は面影すらないのが現状の中端島には30年前の姿がある
※ 去年1年の活動
2002年12月準備会発足(写真展)野母崎でも
野母崎商工会青年部との出会い・・水仙祭り・・端島へのこだわりの人達との出会い・・イベント、研究、観光、写真家など
2003年3月設立総会、8月NPO認証、軍艦島フォーラム
九州大学名誉教授 森祐行教授との出会い(長崎新聞の記事から・・海の道構想)端島、高島、伊王島、池島、崎戸を結ぶ研修権・・青空博物研修権
箱を作るのではなくそこに存在することだけで博物館足りうる。長崎には沢山ある
長崎大学後藤恵之輔教授との出会い・・福岡志免炭鉱の出身(産業考古学会会員)現在副理事長として軍艦島のさまざまな研究をされている
2003年11月軍艦島周遊ツアー150名の参加
軍艦島と地域活性化
※ 軍艦島フォーラムの経緯・・N青年部の意気込み(軍艦島保存を考える)
理事会での検討・・保存が主体か地域活性化と結びつけるのか?
人を集めたいという感覚のマヒ・・・ひとを集めるには さだまさし
何人人を集めれば気が済むのか?・・・一時は市内での開催も考えた・
しかし青年部のがんばっている姿にすべてを考え直した。
※ 軍艦島資料館(水仙祭りにあわせて開館)12月14にちから1月15日で4000人
※ 高島でミニツアー・・端島周遊と高島散策・・石炭資料館
写真家、絵を描く方、廃墟好きな若者たち、さまざまな興味を持った人がいる
潜在的な数字は計り知れない
※ 伊王島の利点(宿泊施設)などを生かして
産業遺構ということでさまざまな地域でがんばっている仲間がいます
先日北海道でのフォーラムのチラシをいただいて驚いたのは
炭鉱遺産は・・・ごみか? 宝か?という見出しです
皆さんどう思われますか・・・
私たちは地域の財産として保存し活用することが望ましいと考えます。
北海道と並ぶ旧産炭地である九州に残った炭鉱遺構を生かすことは
西日本新聞で書かれていましたが
「誇れる地域の遺産」としての視点が生まれるということです
つまりこれは炭鉱や軍艦島だけにとらわれずとも地域の中での
誇れるものを作り上げることの視点を生むことだと思います
また軍艦島の保存は放置されたままの日本の今までの産業遺構にも
光を当てることになると思いますし地域おこしの起爆剤になると考えます。
軍艦島の崩壊を食い止めることは容易ではありませんが
「地域の財産」として皆さんの「縁」となるお知恵を貸してください。
※
今後の課題
長崎市、及び県においても観光資源としてこのしまがクローズアップされている点では
喜ばしいことだが・・
まだ保存の域に達していない・・・お金がかかる・・
しかしまた台風が来てこの島を壊してしまえばそれで終わり
観光資源にもならない・・・短期的な構想でなくこれを近代産業の遺産として
保存し語り継いでいく観光行政を願いたい・・・
軍艦島などの産業遺産をそれぞれの方々がどういう認識で評価し定義するかは
さまざまであろうが、我々人間とってのこういった近代史の中で今「現在」を
作り上げてきた存在であることはまぎれもないことである。
歴史の中に登場しない名もない人々が作り上げてきた文化や物をただ無用の物として
目をそむけるのかそれとも過去の人々の知恵と文化を我々は継承し「現在」に
向き合って活用するのかが問われている。
産業遺産は我々にとって何なのか?
博物館にあるものが遺産なのか?
産業遺産は廃墟なのかもしくは我々の財産なのか?
それを導き出すには多くの時間と考察が必要であろうが
今それぞれが考えなければならないことは生かし生かされている今の私たちの
今日を築き上げてきた人がいたという事実でありその近代の歴史を後世に継承していくのは今に生きている我々のほかに誰もいないことも事実であろう。
◆参考文献「軍艦島実測調査資料集」
東京電機大学出版より