長崎湾の近くに端島という、小さな廃墟の島がある。私たちのメンバーがその島の話を聞き、インターネット、電子メール、及び電話連絡による調査の後、その島へ行くことになった。長崎港近辺で釣り人を案内している船頭に頼めば、端島の周囲を廻ってくれることがある。海岸に降り立ちたければ、船頭と奥さんに、理由を話して説得しなければいけない。
遠くから見ると、端島は直角と直線ばかりで形作られているように見える。途切れ目のない灰色の表面が、巨大コンテナ船の船体のように、海との境界をつくり、その上には斑紋のある四角い灰色の建築物が重なり合っている。これは細長い(400m x 100m)島で、昔からその名を『軍艦島』として知られている。
我々は、近隣の緑に覆われた島々とは対照的な、この荒涼とした角ばった島に引き込まれていった。この小さな世界を周航してみると、両端の開けた平らな部分、片側では一箇所が下がっている部分を除いて、全島にびっしり背の高いコンクリートの建物が建っており、細い道で分断されているということがわかる。建物のデザインは様々であるが、それらが密集して、一つにつながった建造物のように見える。灰色の外観は島全体を取り囲んでいる岸壁で、コンクリートの高壁が島への出入りを阻んでいる。
我々はこの地を一日かけて探検することにした。船頭が水面に現れたコンクリートの階段通路に向かって進み、どっしりとしたステンレスの扉に続く壁の割れ目をよじ登った。船頭はこの岩棚に船を寄せ、我々は船の舳からよじ登ってこのコンクリートの船体の冷たい塊に足を踏み入れたのである。
端島は、近隣の島のような魚釣りのための島ではない。船を係留する静かな入り江もなければ、家族や個人が住んでいることを思わせる集落もない。ここは、人々を歓迎する解放的な場所ではない。かといって、長崎への海洋通路を監視している軍事要砦でもない。Alcatrazのように、牢獄島でもない。ここは、捨てられた町なのである。今は抜け殻となったが、端島は、かつて三菱が築き、管理・所有し、経営した産業の町であった。もともと石炭が露出していた島―というよりは岩―の地下には、海中から延びた上質の石炭の地層が横たわっていた。島全体が、そして数千の人口が、全て炭鉱業に関与していた。海底鉱山への地上の出入り口となったその島には、鉱夫やその家族、炭鉱を経営する企業の幹部、住民の健康管理をする医者や看護婦、全ての子供のための学校教師、床屋、店の経営者、銭湯の従業員の生活空間となった。この島は、ゆりかごから墓場までの小さな完全社会であった。炭鉱事業は約百年間、非常に効率よく続いた。端島には石炭を洗い、貯蔵する施設があり、貨物を船積みするのに便利な場所でもあった。船は鉱山から100mもの石炭を積載し、八幡など、こちらも海沿いの至便なところに位置している製鉄所に直接輸送された。
八幡製鉄所は、今ではその規模が十分の一に縮小され、石炭ではなく石油で操業されている。昔の製鉄所の建物はほとんど取り壊され、他のものに置き換えられている。例えばスペースワールド、これは合衆国のスペースシャトルの、実物大の模型が置かれ、宇宙飛行士であるネズミのマスコットやら、テーマソングまで作られた、テーマパークだ。これも八幡の再開発のひとつであり、住民たちは未来に期待している。
炭鉱の町端島の住民たちには、そのような幸運はなかった。島全体は、一つの事業のためだけに効率よく設計されていたのである。炭鉱業に関係のない活動、つまり映画館や食料品店というものは、その一つの目的を支える組織の一部にしか過ぎなかったのである。土地が足りなくなるにつれて、海岸線が埋め立てられ、面積は広くなった。しかし炭鉱業以外の大事業のための土地は余っていなかった。誰も6畳の間から画期的な仕事を始めた者はいなかった。その上、この離島への出入りは難しく、会社が規制を敷いていた。見知らぬ人がぶらっと行って二、三日島で過ごす、などということはできなかった。日本の政治経済が、これからのエネルギーを石油輸入に頼ると決定してから、地方の炭鉱は衰退し、炭鉱社会の意味と機能が消えていったのである。これには順応できず、都市化復興もできず、端島を再開発するという試みは見られなかった。1974年1月、炭鉱の完全閉山の決定が下された。それから3ヶ月の間に、人口は3000人からゼロになったのである。炭鉱のたて坑はふさがれ、設備は解体撤去され、労働者と家族は引っ越していった。その他の、さまざまな建物、学校、病院、先生たちの住居、炭鉱夫たちの銭湯、あらゆる職種の人たちが住んでいたアパート、そしてこれらの住民たちが(持ち出せる荷物に制限があったため)持ち出せなかったものは全て、島に放置された。そのまま完全に放棄された。ゆっくりと海の藻屑となるのを待っている。ここで理解しがたいのは、建物は耐久性を持って建てられたのだ。ここは厳しい環境であるにもかかわらず、30年経った後も、かなり原形をとどめている。しかしこの現存物を見ることで、最後の最後まで、人々が炭鉱の存続を期待していただろうことを計り知るのである。
人々は、長崎湾沖に浮かんだ、高層建築物の塊という、いわば巨大タンカーのデッキの上だけの生活を送っていた。従業員たちは、身分によって分類され、住居も分けられていた。炭鉱長だけは島で唯一、和風の木造建築の一軒屋に住み、その家は島の高台、上水道の給水タンク下にあった。それよりは下手の地区、鉱脈の露出部の上方には、幹部たちのための広い集合住宅があった。おそらくこの人たちやその家族を仕事に集中させるためであろうか、家の大きな窓は全て炭鉱施設の方を向いており、そこから石炭の山と炭鉱設備の幾何学的な景色と、後ろにはロマンチックな海の景色が望めたのである。この特権住宅の下には、その他の住民たちの居住区があり、こちらは社会的地位や会社の水準により、広さも快適さもピンからキリまでであった。医者と教育者が最上層階級、最も下は独身の鉱夫であった。階級による特権とは、眺めがよいということのほか、プライバシーの配慮、涼しい海風の入る方角、などがあった。最も下の階級では、小さな部屋を何人かでシェアして、食事も風呂も他人と一緒という状態であった。この階級制度は子供たちの施設までには影響しなかったようである。島には一つの保育園と一つの学校しかなかった。実際、保育園には高層住宅の最上階と屋上が使われ、学校は独立した建物で教室の前に運動用の広場もあった。子供たちは皆、ちゃんと平等に扱われたようであった。誰でも出入りできる屋上や路地が子供たちの遊び場所であった。
私は、活気があった頃の端島の様子を想像してみる。どんな音が聞こえ、どんな匂いがしていたのか。そこでは、一人になる場所を見つけることなど、難しかったに違いない。今では、この島を歩いていると、まるで地球最後の生存者のような気になってしまう。島を訪れている人たちに出会うことも時にはあるが、たいていは、あたかも、形は残っているものの命が失われた、まるで珊瑚礁の死骸のような、ひと気のない住宅街の小道を一人っきりでぶらついているのである。ここには、輪廻感がある。古代に消滅した社会からエネルギーを採掘するために作られた場所、その場所自体が今や消滅している。この島は太古の沼の遺跡に錨をおろした、船の化石である。全てが衰退と崩落の痕跡を残している。波は岸壁の下方部を削り取り、執拗な侵食によって要砦が破壊されようとしている。人々が島を去ってから、波によって岸壁に大きな穴が開き、壁内部に詰めてあった軟弱な部分が侵食され始めた。学校の校舎は、片側で下のほうが侵食で壊され、柱の土台が丸見えの状態になっている。今や崩壊寸前の危機に震えている。関係者たちがその部分の壁を原物より強いものに作り替えたが、校舎の土台部分は丸見え状態のまま残っている。おそらく、内部構造の強度より周りを完全に修復する方を重視したのであろう。こういった建物は、鉄とコンクリートでできているにもかかわらず、永久的なものではなく、単なる採掘現場におけるテントにしか過ぎないのである。雨の一粒一粒がセメントをほんの少しずつ溶かし、内部の金属部分まで錆で腐食させる。この破壊による粉塵は微風によって運ばれていく。この微かな仕業が積み重なって、滑らかだったコンクリートの表面を穴だらけにし、内部の補強材を腐食性のある潮風にさらしてしまう。これら外壁の下には、まるで採石所のように、地面に破片が散らばっているのである。島は地震のあとのような状態にある。
建物の環境は放置されるのではなく、維持管理されている方が、我々にとっても嬉しいし、気持ちがよい。しかしこの場所の日々の管理は30年前に突然打ち切られたのである。我々は、様々な破片物の散らばった廊下を歩いた。これらの建物のハードな部分の構造はほとんど無傷に見えるが、ソフトの部分はくずれ始めている。クレーターの間を我々は歩みを速める。我々は、月面を歩くアームストロング船長である。床板がきしみ、突然崩れて15センチほどの隙間から硬いコンクリートの土台がむき出しになる。アパートの中に入ることは、きわめて慎重さを要するが、入らずにはいられない。以前に訪問者があったことの証しである落書きを見つけるが、同時に、妙な、不自然な家庭生活の一場面があったりする。テーブルと椅子がこまごまとしたものと共に置いてあり、子供たちがお茶会を開いていたのを思い起こすように据え付けてある。その秩序のよさは、もともとあったにしては本当らしくなく、埃もしていない。どこもかしこも時の流れが表れている。風に揺れている金属製のフックは、それが垂れ下がっているコンクリートの表面に当たって、弓形の傷をつけている。今やこのフックにとっては、洗濯竿をつるすとかその他考えられることが目的ではなく、セメントが錆びてボロボロになるまで傷をつけることこそが、新しい目的となった。コンクリートにできた溝が、風と踊るフックの証しである。
岸壁の上部には、腐食した木製の柱や、島を一周していた鉄道の枕木の端切れなどが穴をふさいでいる。この岸壁は、最高の眺めのある、島随一の散歩道であり、誰にでもデッキからの夕陽を見られる遊歩道である。友人と歩き回っているうちに、週末に一人で来た釣り人に出会う。いたるところで雨水が溜まって、不活発な蚊の幼虫の温床になっている。簡単に殺せる、成虫は致命的な平手打ちから逃げることを忘れてしまっている。この蚊たちが果たして最近の移住者なのか、もともとの住民の子孫なのかは、知る由もない。
端島において、我々は、自分の死後がどうなるかを見た気がする。我々は海を渡り、大惨事の過ぎ去った時間、我々みんなが待ち望んでいた時間に、タイムスリップする。夕方になると船頭が我々を島から帰してくれる。ディーゼルの唸り声とポンポン鳴る音が静寂を破り、我々は島から脱出できることにほっと笑みを浮かべる。
「今まで島にいたのかい?」と船頭の息子が尋ねる。彼は最近、留学先のカリフォルニアから帰国したばかりで、目下失業中。「まさか。」と彼は言う。彼は幽霊がどうのこうのと言ったように思うが、記憶が定かではない。話を脚色してしまうだろう。端島はただの、無人化した小島にすぎない。その生い立ちだけで魅力的であり、効果を高めるための幽霊話は必要としない。この島は過去の文化の衰退を、そして我々自身の死をも連想させる。皮肉ではなく、端島は気の休まる、穏やかな場所だと私には思えた。
廃墟となってしまったこの島は、次第に朽ち果ててのちに、このような場所が消えつつあることを人々に知らしめるのである。島は、廃墟の町が歴史的な遺跡へと置き換えられる魔法を、待っている。これをどうするかについて、以前の住民の間で、非公式な話し合いは行われている。明らかに女性に多いが、この島を安らかに海に沈めたいと言う人たちもいる。他には、私の友人のように、この島を何らかの形で、産業史上の世界遺産として認めてほしいと言う人たちもいる。どちらの運命が降り注ぐにせよ、その前にこの島を見ることができて、私は嬉しく思う。小額の寄付でも考慮していただければ、窓や裂け目を密閉するなど、建物を保存するための最小限の措置が取れるのである。驚くことに、企業は将来のことを考えず、今や人がよく訪れる博物館島になるかもしれないものに対して、投資を怠ったのである。この足で歩き回って腐食の状態を目の当たりにした今、島が安全な博物館になる可能性が、私には想像できない。

