軍艦島から始まる海の路

「青空博物研修圏」を創ろう

九州大学名誉教授 森 祐行

棄てられた島

 長崎市街を抜けて国道449号線を南に向い、三和町から野母崎町に入ると、右手一杯に海が広がる。海上に軍艦島が浮かんでいる。正式の名を端島という。かつては、石炭を掘り出すために5千人からの人々が住んでいたが、今は人っ子一人いない無人島である。

 人々が去って約30年、今、廃墟が人々を引きつけている。軍艦島に想を得た音楽家、画家、映像作家もいる。この夏、野母崎町で開催された「軍艦島を世界遺産にする会」のフォーラムには100人を越える人々が集まった。新聞は、「会の代表が『軍艦島は日本の近代史をつくり上げてきた産業遺産。そのことを語り継いでいかなければならない』と挨拶し、パネル討論では『島の住宅は建築史的にも重要な様式』『高島などの炭鉱が今の日本をつくりあげた』などと活発な議論がなされた」と報じている。

戦いすんで日が暮れて

 日本の歴史を見るとき、わが国の近代化に貢献した石炭産業の役割を忘れてはならない。長崎市港外の島、高島にあった民営の高島炭礦と福岡県大牟田市にあった官営の三池炭鉱がそれぞれ三菱財閥と三井財閥の、ひいては日本の資本蓄積の基盤を作ることになった。明治維新以後、日本は近代化と反植民地化の手段として外貨獲得、富国強兵に力を注いだ。その行き着いた先が太平洋戦争であり、そして敗戦であった。

太平洋戦争によって産業基盤が壊滅的な打撃を受けた。敗戦後、石炭産業は経済復興の重要な担い手として石炭の増産に力を尽くし、地域の発展に尽くした。しかし、国内炭の価格が輸入炭や石油の価格より高くなるにつれ、かつては産業のコメともてはやされた国内炭は経済成長を阻む「お荷物」扱いになってきた。そして、平成14年(2002年)1月30日、北海道釧路市の太平洋炭砿が閉山した。この日をもって、平成13年(2001年)11月29日に閉山した長崎県西彼杵郡外海町の松島炭鉱とともに、日本における石炭生産の幕が閉じられた

 太平洋戦争の敗戦後、人々は経済復興に情熱を傾けた。そして経済復興は見事に果された。しかし経済成長と共に高騰を続けていた平均株価は平成元年(1989年)12月29日を最高値にして翌年1月4日から下落を始め、バブル経済の崩壊が始まった。いま、わが国の倒産企業が外国資本に買収されている。今また、経済戦争という第二の敗戦から立ち直らねばならない時を迎えている。

人が歴史をつくり、歴史が人をつくる

 経済はあくまでも手段であって目的ではない。人々は経済を復興して何を求めようとしたのであろうか。もう一度、武力戦争に敗れた昭和20年(1945年)当時を思い起してみよう。日本を武力国家から文化国家に立て直そうとした人々がいたことを。民衆にパンを、人はパンのみでは生きられない、この二つのスローガンが叫ばれた時代があったことを。武力と経済、共に手段であるべきものが、いつのまにか目的となってしまい、戦争という形で人々に苦しみを与えてしまった。今こそ、文化国家建設のために人生の経験者たちは過去を語るべきである。

産業は時代と共に移り変わる。だが、新しい産業も古い産業の技術を土台にして新しい技術を産み出していく。炭鉱の技術も形を変えながら、人から人へと伝わり、今も生き続けている。では、これらの技術を産み、育てていく推進力は何であろうか?それは意欲と情熱だと思う。人は社会に規定されるという。しかし、社会は人がつくったものである。人が社会を変えていく。社会を変えようとする、その意欲と情熱が技術を産み、育てる。

ならば、意欲と情熱はどうして育まれるのだろうか。人々の意欲と情熱は歴史の所産である、と私は言いたい。なぜか。理由は簡単である。私がここに存在するのは両親がいたからであり、両親にはそのまた両親がいたからである。物理的な肉体の存在だけでなく、技術や知識や価値観を含めた精神的な存在も先人が作った歴史の延長線上に存在している。あえて狼に育てられた“狼人間”の例を出すまでもないであろう。「現在」は「過去」の延長線上にある。過去を知ることによって現在を知り、より良き明日を切り拓くことが出来る。日本の進路を見出すには歴史を知ることから始まる。それでは遅過ぎるとの非難がある事は当然である。だが、先進国という学ぶべき国があった過去とは異なり、これからの日本にはそれがない。やはり、ヨーロッパの国々がそうであるように、遅いかもしれないが、歴史の中から学ぶしかない。

青空博物館

長崎県には石炭を掘り出した島々がある。島には、我が国の歴史において重要な役割を果した石炭産業の遺跡がある。先人の残したものを活かすのか。殺すのか。今、私たちの英知が問われている。豊かな自然と産業遺跡を未来に活かすことは私達の責務である。

青い海と青い空の中に白い軍艦島(端島)が浮かんでいる。ローマの遺跡や吉野ヶ里遺跡のように、炭鉱の遺跡も青空の下、その地にあってこそ、その価値が現れる。人々は、その地に立ってこそ、その遺跡を実感できる。

人は具体的な物を見て、触って、話しを聞いて、その物の価値や背景を実感できる。博物館といえば立派な建物の中に高価な品物が陳列されている場景が浮かんでくるが、その必要はない。品物を前にして、その品物について語りかける人がいて、その話しを聞く人がいる。そこが博物館である。誰にでも思い出の品はある。その品はその人にとっての宝である。金銭には代えられない宝である。昔、語り部という人々がいた。思い出の品を前にすれば、誰もが語り部になれる。

ある物を前にして人と人が語り合えば、互いに何かを感じ合うことができる。職業としての研修には達成目標と基準が必要であるが、人生のための研修には客観的な目標や基準は不要になる。博物館の機能に、職業上の技術や知識の向上に直接、役立つ研修があるのは当然であるが、私は敢えて、職業と直接には結びつかない研修の場としての博物館を提案する。